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「王城の護衛者」松平容保  第三回 資料図・徳川家の血脈維持機構


世襲制の封建時代にあって家の存続は最重要課題だった。
徳川家ではそのための「セーフティネット」を充実させることに力が注がれた。

徳川家康は、晩年にもうけた3人の男子、義直・頼宣・頼房に「御三家」とよばれる特別な大名家を創設させた。

それぞれ尾張紀伊水戸という要所を治めさせ、秀忠の継いだ将軍家に事故のあるときは替わって世継を出す役割を担わせた。

実際に秀忠系の将軍は7代家継で絶えてしまい、紀伊徳川家の吉宗が8代目を継承することになったのだから、御三家の存在意義は確かなものだったといえる。
また、吉宗の子供二人と孫一人を祖とする「新・御三家」ともいえる大名家も創設されている。
これらは特に「御三卿」と呼ばれた徳川家であり、御三家が城持ち大名なのに対して、御三卿は城を持たず、江戸城の門内屋敷に住んでいた。

御三卿の呼び名である「一橋」「田安」「清水」とは、屋敷のある江戸城の門の名前である。

この御三卿は、江戸時代の中期以降幕末にいたるまで将軍家や御三家に大きな影響を与えた。御三家は将軍の後継ぎを出すことになっているが、御三卿は御三家の後継者を出すことが多かったので、実質的に将軍の後継者決定の鍵を握っていたのが御三卿だったともいえる。

また御三卿には同時に、将軍家の庶子たちの受け皿としての役割もあったようだ。
特に桁外れに子供を生産した11代将軍家斉の時代はそれが顕著である。中でも御三家筆頭の格式を持ちながら、とうとうひとりも将軍を出すことがかなわなかった尾張徳川家などは、江戸中期以降は御三卿出身(つまり紀伊徳川家の系列である)藩主が入れ替わり立ち代り後を継いでいる。幕末になってようやく尾張支藩の高須松平家から容保の兄弟が養子に入って継承しているほどである。

幕末、14代将軍家茂は紀伊徳川家の当主であったが、もともとは御三卿の清水徳川家の系統である。家茂が先代の将軍家定と血縁が近かったため、同時に後継者候補にあげられた慶喜を抑えて将軍になったという経緯がある。
15代将軍慶喜は水戸徳川家から御三卿の一橋徳川家に養子に入ったのちに将軍になっている。



初代将軍家康にはじまる将軍家・御三家と松平容保を生み出す血脈の歴史を系図にまとめてみた
↓画像をクリックすると拡大図が別窓で開きます。

限られた紙面に押し込むことと、松平容保との関連性に主眼を置いて作図してあるので、系図における長幼の順番が必ずしも整っていない場合もあること、また省略されている人物も多数、同一人物に別名があってもそのなかの一つで書かれている場合があることを前提にして御覧いただきたい。

あくまで御三家の盛衰や容保の出自を理解する全体的な流れを視覚的に捉えることを目的とした図である。

この図を描きながらいろんな事に気がついた。
たとえば紀伊系は子沢山だとか、徳川幕府の時代に異なった立場で幕引きをおこなわねばならなかった容保と慶喜が、水戸家の血筋で、祖父同士が兄弟という意外なほど「近親であった」などといったことである…

歴史上名を残しながら子孫を残せなかった人物は多い。
同じ幕府でも鎌倉幕府の源氏がわずか3代で滅んだのとはえらい違いである。
家康の場合はここに載っている人間だけでもその血を受け継ぐ一族の一部である。容保と慶喜は家康から見て同じ11世の子孫。ただただ、すごい、の一言。

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