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「王城の護衛者」松平容保の生涯  第二回 会津藩祖「保科正之」と容保の養父「松平容敬」の「似たような境遇」



<会津藩の藩祖 保科正之(ほしなまさゆき)は「将軍のご落胤」>


会津藩の藩祖、保科正之は、2代将軍秀忠が奥女中に生ませたいわゆる「ご落胤」だった。
秀忠の正室(信長の妹お市の方の娘・お江与)を憚って、信濃高遠藩主の保科正光が自分の子として預かり養育した。

正之は、18歳の時に高遠藩3万石を継承し正四位下・肥後守・左近衛中将となった。それゆえ(ほとんどの)会津藩主は通称「肥後守」と呼ばれるようになるのだった。

その後も正之は将軍家に誠実に仕えたので、異母兄の家光からの信頼も厚く、出羽山形藩20万石を経て、陸奥会津藩23万石の大大名に取り立てられた。
正之自身は養育の恩義のある保科家の姓を終生名乗ったが、三代目当主正容の時からは「松平」の姓を名乗り名実ともに徳川家の家門となった。


<容保の伯父は会津藩に貰われた「水戸の隠し子」>

正之の血をひく会津藩当主は7代目で絶え、水戸家ゆかりの容敬が8代目を継いでいる。

この容敬という人は、会津藩6代目の子供で7代目の異母弟として幕府には届けてあったが、実際の出自は違う。
実父は水戸徳川家6代目治保の次男義和である。

義和は高須松平家への養子に行くことになっていたが、侍女に容敬を生ませてしまい(まさか子連れで養子になれないので)困っていた。
そのことを聞きつけた会津藩が、この「隠し子」をもらってくれたのだった。これは「容敬本人さえもが知っている公然の秘密」だったという。

男子の後継ぎがなければ家が無くなってしまう時代である。
万一に備えて家名を継げる男子をもうひとりくらい欲しいという家は少なくなかった。
会津藩の危機管理は功を奏した。やがて若死にした7代目の後を継いで、容敬が8代目藩主となったのだ。

容敬が会津藩主になった時点から、容保の会津藩主としての宿命ははじまったのかもしれない。
容敬の実父、すなわち高須藩に養子に行った義和の孫として容保は生まれてくる。つまり容敬と容保は実の伯父甥の間柄なのだ。
男子のいない容敬が養嗣子としてまっさきに思い描いたのは自分の実の血筋だったのであろう。
 

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