会津藩では、「家訓(かきん)」とともに「神道」と「朱子学」が重んじられていた。
藩祖である保科正之(ほしなまさゆき)以来会津藩主は神道を学んでおり、二代目の正経(まさつね)以外の藩主たちはいずれも死後は仏教の「戒名」ではなく神道による「神号」が贈られている。
初代 正之(まさゆき) |
土津(はにつ)霊神 |
二代 正経(まさつね) |
鳳翔殿(ほうしょうでん) |
三代 正容(まさたか) |
徳翁(とこお)霊神 |
四代 容貞(かたさだ) |
土常(つちとわ)霊神 |
五代 容頌(かたのぶ) |
恭定(ゆうしず)霊神 |
六代 容住(かたおき) |
貞昭(すみてる)霊神 |
七代 容衆(かたひろ) |
欽文(あきさと)霊神 |
八代 容敬(かたたか) |
忠烈(まさお)→忠恭(まさね)霊神 |
九代 容保(かたもり) |
忠誠(まさね)霊神 |
容保の神号となった「忠誠」の文字は、孝明天皇から賜った歌に添えられていた言葉の中からとられたともいう。
会津藩お預かりの新選組が用いていた旗もまた「誠」の一文字であった。
容保の生涯を表すのに最もふさわしい文字であるといえよう。
朱子学とは中国の南宋の朱熹(しゅき)が、それまでの儒教の諸学説を独自の合理性で統合した新しい学問体系である。
時代によって若干の解釈の違いはあるが、大筋では、礼を重んじ、君臣の倫理や社会秩序の維持と自己修養の理論などが説かれている。
日本へは鎌倉時代に禅僧によってもたらされたとされている。武家支配の基本理念として支配者層に受け入れられた朱子学は、江戸時代は幕府によって「正学」となり、武家教育の中心となっていた。
保科正之はこの朱子学に通じ、朱子の講義を解読したり哲学家を論じたりした書
--- 「玉山講義附録」「二程治教録」「伊洛三子伝心録」の「三部書」--- を編纂した。
これらの三部書は会津藩の藩校「日新館(にっしんかん)」で講義され、会津藩の「藩風」を形成する源となった。
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