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大名家の種類


江戸時代の武士で、幕府から一万石以上の所領を与えられているものを「大名」という。
また、所領一万石以下の者で将軍に直接目通りできる身分の者を「旗本」、そうでない者を「御家人」という。

大名は徳川将軍家との関係によって「親藩」「譜代」「外様」に分類される。
同じ「大名」でもそれぞれ待遇や役割の違いが大きかった。

徳川将軍家の一門=親藩


御三家
 
徳川家康の九男「義直」、十男「頼宣」、十一男「頼房」を藩祖とする「尾張藩」「紀州藩」「水戸藩」の徳川家。将軍に世子がいない場合は後継ぎを出す役割があった。

御三卿 
徳川吉宗の次男「宗武」、四男「宗尹」、徳川家重の次男「重好」を祖とする「田安」「一橋」「清水」(それぞれ屋敷のある城門の名前に由来している)の徳川家。御三家に次ぐ家格で、幕府からは10万石を給付されてはいたが、独立した「藩」は持たなかった。将軍に世子がいない場合は世継を出す役割もあった。 

御家門 
徳川家康の次男「結城(のちに松平)秀康」を藩祖とする「越前」、徳川秀忠の子「保科正之」を藩祖とする「会津」、徳川家宣の弟「松平清武」を家祖とする「越智」の松平家。「松平」は家康の出身家の由緒ある姓である。

これらの他、家光・綱吉の正室の実家や、家康の女系子孫なども親藩、またはそれに準じて取扱われた。 
          

関が原の合戦以前からの徳川家の家臣=譜代大名


家臣になった時期によっても更に安城譜代岡崎譜代駿河譜代などと細かく分けることもある。
所領の石高はさほど大きくない場合が多いが、老中・若年寄をはじめ幕府の要職は譜代大名から登用されていた(幕末には例外もあった)。

また「願い譜代」といって親藩大名や譜代大名と縁組をすることにより、外様大名が譜代になる場合もあった。
   

関が原の合戦以降に徳川家に従った大名=外様大名


江戸から遠く離れた場所に比較的大きな所領を持つ大名家が多かったが、幕府の要職につくことは出来なかったし、些細なことで幕府につけこまれて改易(領地の没収など)されたりする場合も少なくなかった。
しかし、じっと徳川の支配に恭順しながら長い時を待ち、ついに倒幕運動から明治維新の中心となっていった。

図表で見る大名と領地の配置


まず、江戸幕府の前期である1664年徳川綱吉の時代の全国の大名の所領の分布を見てみる。
大名の配置 図をクリックすると別窓で拡大表示します。

江戸近隣は幕府直轄領(幕府が直接治める場所。天領といわれる場合もある)と親藩、譜代大名でしっかり固めてあるのがよくわかる。

外様大名は当然のように遠国に配されている。しかも街道の要所や京都大阪などの大都市、佐渡や石見などの鉱山資源のある土地も幕府の直轄である。

また、外様大名の所領を分断するように親藩・譜代の領地が置かれ、「監視」をしていたのだな、ということも理解できる。


次に、幕末の1867年時点で大小合わせて300近く存在していた藩について、それらの石高と大名家の種類と配置を感覚的につかめるように示してみた。
幕末時の藩の分布 図をクリックすると別窓で拡大表示します。

長く続いた江戸幕府時代の間には取り潰されたり、移封(領地の場所替え)などが行われたりした藩もあったとはいえ、よくぞこれだけの数が残ったものだと感心する。
それに、幕府の当初の方針が少しも揺らいでいないであろうこともこの図から読み取れる。

すなわち、江戸周辺や街道筋や要所要所にはもっぱら中小の所領をもつ親藩・譜代がモザイクのように集合し、江戸の将軍家を守っているように見える。外様は石高は大きいが江戸からは相変わらず遠い。


折角なので、200年の時間差のある二つの絵図を試しに重ねて同じ画面に表現してみた。
 図をクリックすると別窓で拡大表示します。


1664年当時は藩が存在していた甲斐の国や外様の領地だった飛騨などはその後直轄領になったり、他にも領地の移動や没収などがあったが、おおむね200年間ゆるぎない支配体制が続いていた。徳川幕府が、いかに徹底してその「恒常性」を保とうとしていたかを改めて認識させられることだ。


しかしながら時代の大きな転機にあって「恒常性の維持」に執着することがかえって幕府を衰退へと導いた面もある。
皮肉なことに討幕運動が起きると外様はもちろん、譜代や親藩の中からでさえも勤皇派に与する大名がぞろぞろと現れるのだ。次回はこれらの大名が幕末にどのような立場をとったのかという図表をまとめてみたいと思う。

参考文献 図説日本史(東京書籍) 江戸300藩最後の藩主(光文社)

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