まず、江戸幕府の前期である1664年徳川綱吉の時代の全国の大名の所領の分布を見てみる。
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江戸近隣は幕府直轄領(幕府が直接治める場所。天領といわれる場合もある)と親藩、譜代大名でしっかり固めてあるのがよくわかる。
外様大名は当然のように遠国に配されている。しかも街道の要所や京都大阪などの大都市、佐渡や石見などの鉱山資源のある土地も幕府の直轄である。
また、外様大名の所領を分断するように親藩・譜代の領地が置かれ、「監視」をしていたのだな、ということも理解できる。
次に、幕末の1867年時点で大小合わせて300近く存在していた藩について、それらの石高と大名家の種類と配置を感覚的につかめるように示してみた。
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長く続いた江戸幕府時代の間には取り潰されたり、移封(領地の場所替え)などが行われたりした藩もあったとはいえ、よくぞこれだけの数が残ったものだと感心する。
それに、幕府の当初の方針が少しも揺らいでいないであろうこともこの図から読み取れる。
すなわち、江戸周辺や街道筋や要所要所にはもっぱら中小の所領をもつ親藩・譜代がモザイクのように集合し、江戸の将軍家を守っているように見える。外様は石高は大きいが江戸からは相変わらず遠い。
折角なので、200年の時間差のある二つの絵図を試しに重ねて同じ画面に表現してみた。
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1664年当時は藩が存在していた甲斐の国や外様の領地だった飛騨などはその後直轄領になったり、他にも領地の移動や没収などがあったが、おおむね200年間ゆるぎない支配体制が続いていた。徳川幕府が、いかに徹底してその「恒常性」を保とうとしていたかを改めて認識させられることだ。
しかしながら時代の大きな転機にあって「恒常性の維持」に執着することがかえって幕府を衰退へと導いた面もある。
皮肉なことに討幕運動が起きると外様はもちろん、譜代や親藩の中からでさえも勤皇派に与する大名がぞろぞろと現れるのだ。次回はこれらの大名が幕末にどのような立場をとったのかという図表をまとめてみたいと思う。
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